本の紹介:002 「モモ」

きままに読書

 今日は、中学生の頃に初めて読み、人生の折々で、その内容を思い返す本について。

 「モモ」 ミヒャエル・エンデ

 1973年に出版され、世界中で読まれているベストセラーで、1986年には映画化もされました。田舎の小さな図書室で私の目にとまった時は、出版から既に15年ほどが経過していました。

 「モモ」は、終わりまで手を止めることができず、夜遅くまで夢中になって読みました。最後のクライマックスでは感動しすぎて、いったん本を閉じて天井を仰ぎ、「すごい~!」と声を出したのを覚えています。

 あれから、気づけば30年……ずいぶん時が流れました。

 「モモ」は、人間たちから少しずつ時間を盗んでいく謎の灰色の男たちと、奪われた時間を取り戻そうと戦うモモという名の女の子の物語。印象深いシーンがたくさんある中で私がその後の人生で度々思い起こしたのは、話の中で何度か登場する 「白い地区」のことです。

 灰色の男たちに追いかけられながら、モモと亀は不思議な白い地区に入ります。「ねえ、お願い。もうちょっと早く歩けない?」とモモが亀に訴えると、「遅いほど、早い。」と 亀は前よりももっとノロノロと進みます。そこは、物事の秩序が逆転した世界でした。

 『 ゆっくり歩けば歩くほど、早く進みます。 急げば急ぐほど、ちっとも前に進めません。(中略) そのおかげで、モモは逃げおおせたのです。』(抜粋)

 考えたこともない発想でした。それ以来、人生の折々に亀の言葉を取り出すようになりました。忙ししすぎたり、心が焦って不安になる時に、「大丈夫、大丈夫。遅いほど早い。急ぐほど、遅い。と。

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 人類に「時間」の概念が入り込んできたのは、イギリスの産業革命の頃だそうです。それまでは陽がのぼれば農耕や牧畜、商工をして、夕暮れになったら労働は終わり。みながそれぞれに自分のやるべきことに従事して社会は成立していました。ところが、産業革命以後、労働者は雇用主に雇われて働くようになり、私たちは自分の労働力を「1時間いくら」「一ヶ月いくら」という値段で雇用主と契約を結んで差し出す変わりに、雇用主から賃金をいただくシステムの中で生きることになりました。私が生まれたこの国の多くの人が、働かないと賃金を得られず、食べ物も住まいも、服も買えません。自分もそのしくみの中で生かされています。

 比較的、時間の制約がないと言われているフリーランスの私は、サラリーマンの友人から羨ましいと言われることがたまにあります。たしかに時給で報酬を得るような働き方はしていないので時間の自由度は高いかもしれませんが、自分の要領の悪さもあってか、いただく報酬と労働時間、トータルバランスでみるとどうも釣り合っているようには思えませんし、経済成長していた頃の日本と違って現在のフリーランス、自由業者は非正規社員と同じかそれよりもタイヘンにも思います(私の場合)。しかし、どんな働き方の方でも、与えられた道の上で「なんだかきついなあ」と感じながら、多くの方が今いるベルトコンベアーからなかなか降りることも、立ち止まることもできないでいる点は平等なのかもしれません。朝目が覚めてから眠るまで、一続きの絶え間ないタスクをこなす日々に、時間が不足しているように感じてしまいます。

 子どもの頃、小学校から帰ると毎日のように川や森で遊んでいました。陽の光が山の影に入って薄暗くなるのが、そろそろ家に帰ったほうがよい、というサイン。豊かな感覚だったなと思います。今のように「忙しい」「余裕がない」と口にしてしまう日々から見ると、まぶしい思い出です。

 この30年の間に、「灰色の男たちに時間を少しずつ盗まれているなあ」と何度も思いました。今もそうかもしれません。「忙しい、忙しい」と口にすると、まだ時間に拘束されていない世界を生きている娘からよく叱られます。

 「遅いほど、早い。」

 まったくもって、気休めな言葉かもしれません。ファンタジーの世界の特別原則だろうと思いながら30年経った今もなお、この原則が通じる白い地区がどこかにあると夢みるオバちゃんなのでした。

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